昭和41年06月20日 夜の御理解
今日も私、夕方から現場にちょっと皆さんと一緒にやらして貰いました。もう参ります度に、いろいろとまぁ一つのポイントになるようなところ、全然素人の私にいろいろ分からして下さるようなおかげを頂いて、行きゃ行くがとやっぱあるなと、私いつ高良山杉を買いに行った時に、一番初めに神前の両袖に、白い高良山杉を使われる筈であったところがミスになった。で、それをわざわざ置いてあるのにもうあんな見事なその板が使いどころがなかとが、使いようがないと言いよられましたんです。
ところが今日、私いやこれはそうでなからにゃでけんと、言う様な所をやっぱ発見してきたんですかね。ですからもうその事だけではない、いろいろとまぁ結局あれだけのところがああ言う風に、まぁ結局私好みと言う風に、出来上がっていきよるですね、確かにそう感ずるです。けれどもまぁけれどもではない、そのとを私はもう帰らせて頂いてから、思わせて頂いておりました。してお風呂の中でこう風呂で本当にあのう、確かに何というでしょうかね、今までの教会様式と言った様なものの良い所と。
何か御殿スタイルとでも言うでしょうかね、本当に御殿が出来よると、この頃まあ茂さんバスで、あの田主丸の方へ行っておられたらある人がですね、もう素晴らしい御殿ごたっとが出来よるがちゅって、あそこでわざわざ下りてから、急行でしたけど見られたということを言ってますですね。昨日私共、愛子と福間の叔母が来とりました。あちらへやらせて頂いたんですよね、そしてあのうあそこ合楽に、合楽で降りますもんですから、あそこ降り掛けにです、前に丁度あの夫婦のような人が乗っておられた。
やっぱ椛目の金光様のげなが、ちょいと大した事出来よるち、大体幾ら位どん掛るじゃろうかっち、その主人の方に聞く訳です。したら是お前3億5千万円掛るげなっち。もうそれで2人でもうちょいとバスから降りられんごと可笑しかったり、又嬉しかったり言う様な事を申しておりましたけど。本当に惟は又嫁子さんが今度人に話しなさった時には、恐らく4億万円になるでしょうね。本当にです例えば本当に素人に言うたら、そげんも掛ろうかいと言う様な。
本当にそん位は掛ろうと言う位な一つの言い様というかね。あの感じがあのお広前にこう出来上がっていきよると言う事ですよね。で私本当にまぁ勿体ない事じゃあるなぁ。結局私好みに成って行きよるな後私は思わして頂いたらですね。私そこん所ちょっと間違えておるか分かりませんけれども。今あの御祈念中に思い出そうと思うても思い出せんのです。けどこう言う事を頂くんですよ「熨斗かけるものなれば」と頂きました。熨斗をですね、「熨斗をかけるものなれば」とこう仰る「熨斗かけるものなれば。」
そしたらすぐ御心眼にです。あのワラビがこう出るでしょうが、あの丁度こう熨斗のような格好で出て来るですね。あれを頂くんです、ははぁこれは自然が、私に熨斗を欠けて下さるものなればと、いうことだと私は分からしてもらったんですよ、ね。何のために私に神様がです、成程私は言うておる、私、いわゆる神様の難儀な氏子の助かることの、助かる場として神様がああなさっておる。
神様のものだとこういうのだけれども、神様は結局中心である私に、言うならばまぁ贈り物のような気持ちで。あれが出来ておると言う事なんですよ、ね。例えばあげな何時々まででもです、先代の頃にこれは出来たんだと言う事は、結局先代の言うなら、まぁ徳で出来たということしか言やしませんですよね。いわゆるあれは私に熨斗かけるものなればと言う言、ね。そしてその頂くのに、肥えたですねワラビがこう出るとと、ちょうど熨斗の形に頂くんです。
そこで何のためにんなら、私の様な者の信心に、神様が熨斗かけて下さらなければならないか、言わばしかも私好みにですたい、ね。それはどう言う事かと言うと、皆さんそうでしょうが、ね。誰々さんに何かを贈るという時には、その誰々さんに贈るその人の好みとか、ね、その人の好きなものとか、その人に喜んで貰うものしか贈らんでしょうが。熨斗かけるものである場合ですたい、ね。あの人はもう甘かもんしか好かっしゃらんとに、お酒どん持って行ったって喜びしなさらんです、ね。
それも酒なら喜びなさるとにあなた今度羊羹どん持って行ったっちゃ喜びはせんです。いくら素晴らしかったっちゃ、ね。やはりどうであっても、それは程度はまぁあの程度でありましても、結局は私が喜ぶ事のために、神様はお働き下さっておるんだと言う事を感じますですね、ね。なら何の為にんなら私位な者に、神様が熨斗付けて下さるかと、言う事になるんです。そこを皆さんが分かって頂かなきゃならんと思うですよね。
久留米の初代の石橋先生が仰っておられるように、ね、氏子の一握りと言うたらこれだけだけれども、ね、神様の一握りと言うたらどれだけあるやら分からんと仰った。ある時にご本部の偉い先生が久留米の教会に講演にみえられた、「信心生活について」という大学出の、まあ先生だったらしいです。ですから非常にその、信心生活ということがまぁあんまり学問なさっておられない、石橋先生にしては難しかった。聞きはおるけどいっちょん分からん。信心生活についての講演があっておるけれど、ね。
文高か理屈っぽい、理論的であったのであろうとこう思うんです、ね。それであのう神様只今勿体ない事でございますけれども、ご本部からわざわざ、金光様の御妙代として、お話をして下さっておるのでございますけれども、私無学で分かりませんて。大体どう言う様な言わば大義、あの話の大義というのは、どう言う様なものでございましょうかと言うて、そのお届けされた時にですたいね、神様はすぐ御心眼に下さっておるのがですね、丁度生まれたばかりの赤ちゃんが、絹布団の上に休んでおる所を頂かれた。
紅白のあの、絹布団の上にですね、それに赤ん坊が寝せてある姿。しかもそれに大きな水引の掛っておる姿であった。それでまぁあそこは、御神徳家ですからすぐ悟られたわけですね、ははぁ信心生活とはそう言う様なものだと、悟られたとこう言うんです、ね。私共が、例えば生まれてこの世に出て来る時に、それこそ布一寸持って来ちゃいないということ、ね。さあ生まれたんならすぐ、その着物を着せて貰うでも、皆やはりこれお恵みのものを付けて頂くのであって、私共丸裸だと。
ですから生まれてからこの方、私の身に付いておるもの、私の物として、名が付いておるもの、それとてもみんな自分の物じゃない、神様の御物だということだと。一切が神様の御物だということなんだと。そういう思い込みを作っての生活を、信心生活と言うのじゃとおっしゃった。まぁそれをもうちっと言うならば、自分の物と言うなら、自分の物にいつも水引かけてあるような生活なんだということ、ね。私は億万円、例えば財産をもっておってもです、ね。
私の名前に、やはり銀行では、私の名前にようなっておるとするか、けれどもいつでも神様がおいりになるという、いつでもそれに水引が懸けられる気持ちになっておる、そういう生活を信心生活と言うのじゃと。信心生活とはそう言う様な言。そう言う様な事をまぁ理論的に、あの先生は話しておるんだという意味を、神様が教えられたという話がございます。ね。
成程そう頂いて参りますとです、私が成程この程度ではありますけれども、神様から成程熨斗つけるものなればと、仰る訳が分かると自分で思うのです。私はここでなら頂いておるもの、私それ何時もそれを思うておりますもん、実感しております。私のものじゃないて、これは親先生のものと言いよるけれども、実は神様の御物だと思うておると言う言。だから神様がお取り上げになるならば、神様が必要となさるならば、いつでもそれに私は熨斗が掛けられるのだ、水引が掛けられるのだとこう思っておるです、ね。
そういう生活の中に、結局私が熨斗を掛けておるから、神様もまた熨斗をかけて下さると言う事になるのじゃないでしょうか。そこに神も助かり氏子も助かると言う様な助かりというのは、そう言う様なもんだと私は思うんです、ね。私は本当に段々、段々私好みになっていくお広前見て、本当に怖いように思います、ね。今度今日私参りましたら私の方の私共が、あの寝室にある入り口の所がどうも、どげん考えても惟はおかしい、まぁ言うなら設計のここ、大体初めからミスだったろうと思う様な所があった。
それでここんところをあぁだ、こうだと私が言うておる事がです、段々段々その一番私好みになっていきよると言う事ですよね。その事からその事を私実感として今日、その風呂の中で思わして頂いたら、ただ今頂く様な事を頂いた、ね。「熨斗掛ける様なものなれば」と。そして御心眼にわらびのこう芽の出る所を頂いた、ね。いわゆる自然が熨斗ですね、あれ熨斗の形になっておる。自然が熨斗をかけて下さるのだと、いわゆる私頂くそれと、この私の心耳に頂く事と心眼に頂く事が一致するでしょうが、ね。
そういうおかげというものが、お互いの上にもやっぱり、現れてこなければならん。ところが、お互いの部分はお願いしてから、ようやくこのくらい、一所懸命お願いしてこの位と言う事ではないかと、ね。結局、私好みに皆さん好みにです、おかげが現われていっていないとするならばそこんところをです、本当の信心生活が出来れる、おかげを頂かなきゃならんと思うですね。
どうぞ。